皆様方には、今回の下山 隆君の遭難にあたり、多方面からのご支援、そして温かいお言葉など頂きまして、本当に感謝申し上げます。
先週5月18日に、無事葬儀を済ませニザを送ることが出来ました。
未だ、ご家族そして私共々、後片付け等など落ち着かない毎日です。
一刻も早くお礼の言葉、そしてカンパ関連のご報告をしなければいけないところですが、とり急ぎ、葬儀の際に私が読ませて頂いた彼への弔辞をここに掲載して、まず最初のご報告に代えさせて頂きたいと思います。
以下、原文のまま。
下山 隆君のご霊前に、謹んで哀悼の意を表します。
ニザ、お帰りなさい。
本当に、よく帰って来てくれましたね。
でも、馬鹿野郎… 本当に、馬鹿野郎です。
雪をかじってでも、私たちが救助に行くのを待っていてくれると信じていたのに。何としてでも、生きて連れて帰りたいと、みんなそう思っていたのに。
今日は、朝日小屋の元管理人・私の父下澤三郎との繋がりで始まった貴方の山人生を、最後は私に締めくくってほしいという、奥様直子さんの思いから、貴方にお別れの言葉を述べさせて頂きます。
ニザ、祭壇の前の写真の貴方は、とってもいい顔しています。
去年の秋、黒部峡谷・下の廊下を往復して阿曾原温泉小屋へ、稜太君と一緒に行った時の写真ですね。
子どもたちに、空手や柔道、釣り、そして山。パパが大好きなことを全部教えたくて、子煩悩だった、家族を愛した貴方だったのですね。
ニザ自身が下澤三郎の追悼集「逢いたくて」に書いてくれていますが、貴方が初めて北アルプスの最北端朝日岳に登ったのは、昭和52年(1977年)7月、初めての山行として参加した泊高校山岳部の夏山合宿。当時の山岳部は、辻先生たち顧問の先生方のご指導の下、結構ハードな山歩きをしていたように聞いています。
これも追悼集に書いてくれていますが、その後週末従業員というか、アルバイトとして、アットホームな朝日小屋が好きで、素朴なおやじが好きだということで、暇さえあれば朝日小屋に通ってくれていましたね。私の実家にも、毎日のように出入りしてくれていましたね。
楽しかった小屋での思い出も尽きません。プロレスのアントニオ猪木のテーマ曲で、モノマネをしてくれたことなど、いろいろありましたね。
貴方の言葉を借りれば、朝日岳はニザにとって『わが心のシンボル』、そして朝日小屋は『私の登山人生のルーツ』だそうです。
そんな貴方は高校卒業後、当時の電信電話公社に就職。その後会社組織がNTTに移行してからも、ハードな仕事の合間を縫って、山行を続けていたと聞いています。
特に、ふる里の山へは、毎年実家へ里帰りした際に、黒菱山、初雪山、そして立山方面の山へと、足しげく通っていたそうですね。
20歳の時、辻先生はじめ当時の高体連の方々と一緒にネパールの5,000m峰を登り、その時見た高山に憧れその思いをずっと抱きつつ、辻先生と2人「いつかあの高みへ」の思いを実現させて、2004年には8,201mのチョー・オユーからのスキー滑降を成功させています。本当に素晴らしい、実力ある岳人であると誰もが認めるニザでした。
そんな貴方が、好きな山で、自分が一番好きな地元の山域で、一瞬にして命を落としてしまうなんて、本当に信じられません。今の私の気持ちは、言葉になんて表せないくらい複雑です。
今回、当初の予定では、栂池から入山し、小蓮華・雪倉・朝日などを廻って蓮華温泉に下りるという予定を立てていたはずでしたね。
貴方が入山した4月16日、お天気はそれ程悪くなかった。ただかなり風が強かったと聞いています。
単独行の貴方は、多分強風を避け、当初予定していた厳しいコースを変更し、安全策としてひとまず蓮華温泉へ滑り込むルートを選んだのではないかと推測します。でも叶わなかった…。
今回まとまった休暇が取れた貴方は、友人にあてたメールの中で書いています。「一生に一度はやりたかった…」そんなコースをいくつか挙げて、とにかく白馬・雪倉・朝日周辺を歩きたかったし、滑りたかった。その山懐の中に入りたかった。好きだったんだものね、この山域が。
ニザが行方不明になってから1か月、自分たちの足でこそ現場に捜索には行けませんでしたが、ご家族や友人・知人たちは出来る限りのことをしました。
救援のためのカンパ活動も、同級生や知り合いをはじめ、全国からたくさんのご支援を受け、何としてでも貴方を見つけたいと、短期間のとりくみでしたが、本当に多くの善意がよせられました。有難いことです。感謝しています。そんなみんなの思いが、きっと貴方に通じたのですね。
ご家族の皆さんは、この1か月大変でした。でも、大切な人が帰って来てくれて、本当に良かったですね。
奥様の直子さんは、今回山へ出発するニザのために、おにぎりを作って持たせたそうです。実は、そのうちのいくつかが食べてあって、2個が手つかずで残っていました。それを知った直子さんはこう言われました。「最後の食事が、私の作ったおにぎりで良かった…」
長男の雄太君と次男の稜太君は、ゴールデンウイークの間中、栂池で捜索の手掛かりを求めてビラまきをしてくれました。
雄太君は、ずっとパパの携帯に電話をかけ続けていました。何度も何度も。
稜太君は、出発するパパに、カエルのマスコットを身に着けて持って行ってもらったそうです。だから、パパは帰って来てくれたのだと思います。
お父様お母様、そして弟の浩二さん、いろいろ大変ですが、これからも助け合って、頑張ってくださいね。
ニザ、貴方が愛したご家族のこと、頼みましたよ。
貴方が雪山に消えてしまって、実は私は心配しました。直子さんや子どもたち、ご家族が、一生山を恨んだりしたらどうしようって。
でも取り越し苦労のようで、少し安心しています。
パパが大好きだった山へ、朝日岳へ朝日小屋へ、今度はみんなで行こうといってくれています。この次からは、子どもたちがパパに会いに山に登って来てくれると思うと、何だかホッとしています。
ニザは、追悼集「逢いたくて」の文章の最後で、こう書いてくれていますね。
『ゆかりさん、がんばってね』
頑張りますよ、登山者の皆さんが安全に楽しく、山を歩いてくださる、そのお手伝いをするのが私の役目ですから。
今日は、山が、朝日岳が、良く見えています。
山の上の、まだずっと遠くて高い所から、みんなを見守っていてくださいね、ニザ。